俳句で有名な松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出たのは、1689年(元禄2年)3月27日(旧暦)に弟子の河合曾良を伴って、江戸を出発しています。
<白河の関に立つ松尾芭蕉と弟子の曾良の像>
この時の芭蕉の年齢は、答え 46歳でした。
ちなみに亡くなったのは5年後の51歳で1694年(元禄7年)、現在の大阪御堂筋と言われています。
そして同年の4月3日から16日までの14日間、奥の細道紀行では最大に長い期間を大田原市の黒羽の里に逗留しました。
『奥の細道』で有名な松尾芭蕉と那須地域とのつながりは結構深いことをご存知ですか?江戸後期1689年(元禄2年)3月27日に江戸を出発した松尾芭蕉と弟子の河合は、日光東照宮を参詣のあと、那須町お隣の大田原市黒羽に14日間逗留しました。
その後芭蕉は那須町に向かい、16日に那須町高久の問屋(名主)の高久角左衛門宅に2泊、18日に殺生石、20日に遊行柳の記録があります。(記録から見ると那須町には通算で5泊したことになります)
高久角左衛門の子孫宅の庭には、芭蕉の句碑が残されていて「落ちくるや たかくの宿の ほととぎす」と記されています。降り続く雨と、高いところから落ちてくるような鋭い「ほととぎす」の鳴き止まぬ声を、また「高久」と「高く」を掛けている。
殺生石で詠んだ句は 「石の香や 夏草赤く 露あつし」
遊行柳で詠んだ句は 「田一枚 植ゑて 立ち去る 柳かな」
<Dai>
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