【日本遺産】明治貴族が描いた開拓浪漫が広がる“那須野が原”と青木周蔵

那須塩原市青木の青木周蔵邸

那須野が原の開拓の歴史が、2018年に【日本遺産】として文化庁から認定されているのをご存知ですか?

そもそも【日本遺産】とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定する制度です。2016年から、那須塩原市を代表として、大田原市、矢板市、那須町と共同による「近代開拓史遺産日本遺産認定推進協議会」を設置し、「明治期の華族農場を中心とする那須野が原開拓の歴史」をストーリーとしてまとめ申請、それが【日本遺産】として認定されたものです。

那須野が原の開拓が始まったきっかけは“水”の確保
「那須野が原」は、140年ほど前までは、人の住めない荒野が約4万ha(400㎢)にわたって広がる、日本でも最大級の“扇状地”でした。

空から見ると那須野が原は広大な扇状地 写真wikipediaから
那須野が原扇状地空撮
「那須野が原」が人も住まない荒野が広がっていた理由は、“扇状地”という地形にありました。扇状地というのは、地表から30~50cmより下は砂礫されき層となっていて、どこでも少し地面を掘るだけで大量の石が出る状態なのです。
河川はこの砂礫層に浸透してしまうため、大雨の時以外には表層を流れません。那珂なか川とほうき川にはさまれた「那須野が原」の中心を流れる“蛇尾川”さびがわは、ふだんは川底が見えている水無川みずなしがわで、水流は川底のさらに下、地面の中を通っています。

ふだんは水無川となっている蛇尾川 wikipediaから
那須野が原を流れる水無川の蛇尾川
このように扇状地は、もともと水資源に乏しく、農地には適さない地域であり、「那須野が原」は江戸末期まではほとんど集落のない原野でした。
しかし明治政府の殖産興業政策により、1885年(明治18年)に日本三大疏水の一つに数えられる“那須疏水”が開削され、那珂川の上流域から水が導水されたことで用水の確保に目処が立ち、これが開拓を進める大きなきっかけとなりました。

大規模農場の経営に浪漫を抱いて乗り出した貴族たち
明治時代の三島農場三島農場の貴重な農作業風景写真 wikipediaから

明治政府の中枢にあった貴族階級の人たちは、明治の殖産興業政策の「那須野が原」の地に私財を投じ大規模農場の経営に乗り出します。それは、近代国家建設の情熱と西欧貴族への憧れを胸に、荒野の開拓に挑んだ貴族たちでした。華族階級が出資する農場は、1880年(明治13年)から1887年代にかけ、次々と開設されました。その数はざっと20で、これは日本一の数になります。

現在の「那須野が原」には、今もその貴族の農場の別邸がいくつも残っており、【日本遺産】のストーリーがここから始まっています。いわば那須エリアは日本の近代化遺産の宝庫でもあったと言えます。

那須塩原市青木のドイツ風別邸と青木農場
青木周蔵氏その中の一人『青木周蔵氏』を今回はご紹介しましょう。私の自宅から車で15分とかからない場所にある道の駅で、友人がそこでカフェをやっているのでよく立ち寄る場所でもあります。

『青木周蔵氏』の別邸は、この、那須塩原市の“道の駅 明治の森黒磯”に修復保存されていて、いつでも見ることができます。
青木周蔵氏は、山口の生まれで、明治、大正期の日本の外交官であり政治家です。ドイツ公使、山縣有明・松方正義内閣の外務大臣を歴任し、不平等条約の改正に尽力した人物。氏のドイツ滞在は留学から通算すると23ヵ年にも及び,妻もドイツ人でした。

ドイツでの生活が長かった青木周蔵氏は、ドイツ貴族の経済的基盤が林間農業であったことから、日本の貴族も土地所有による経済的安定を持つべきだと考えていました。
1881年(明治14)から1888年にかけて現那須塩原市青木の約1586haの土地を取得し、移住者を積極的に受け入れるとともに、製炭事業など色々な農場事業を展開しました。またこの時期に農場のほぼ中央にドイツ風の別荘を建設します。

当初は中央2階建て部分のみでのちに増築した
那須青木の森の青木周蔵別邸
さらに青木周蔵氏は、1904年(明治37)には、私立青木尋常小学校を農場内に開設します。
1913年(大正2)には青木農場には、26戸185人が移住し、農業に従事していました。青木周蔵氏は、1914年(大正3)に亡くなりましたが、遺言により農場内に埋葬されました。青木家のお墓は、現在の青木邸の裏側にあります。

ドイツの雰囲気が漂う青木周蔵別邸
那須塩原市青木の青木周蔵別邸デッキ

1925年(大正14)の死後、親族が農場を引き継ぎ、この時期には農場には44戸249人が就労するまでになっています。1947年の農地改革により小作地と山林を開放し、この時に多くの開拓地が誕生することになります。1995年に青木周蔵別邸は、当時の所有者であった青木重夫氏夫人が栃木県に寄贈し、1999年(平成11年)には、国の重要文化財に指定され、一般の人も自由に見学ができるようになりました。

ドイツ風建築の青木周蔵別邸
青木周蔵別邸の設計は日本建築学会の創設者の一人でもある、男爵松ヶ崎萬長つむなが。岩倉使節団とともに留学生としてドイツに渡り、ベルリン工科大学などで建築技術を学びました。そのため、青木邸にも軸組や小屋組に、ドイツの建築に多用される工法が用いられています。

農場が臨めるバスルーム
那須塩原市青木の青木周蔵邸のバスルーム
ドイツの建築技術が見られる青木周蔵別邸
ドイツの建築技術でつくられた青木周蔵別邸

青木周蔵の娘ハナ
この青木周蔵別邸は、いつでも見学することができます。館内には、青木周蔵が使用した欧州製馬車や英国製鍋、別邸で静養する青木周蔵や妻のエリザベート、そして娘のハナらの写真も展示され、華族農場の華麗な暮らしぶりを垣間見ることができます。

貴族たちはそれぞれに浪漫ある思いを抱いて「那須野が原」の開拓に手を染めました。今でも当時の貴族の農場がそのまま残っているところもあれば、分割所有されて新たな開拓民に引き継がれたところもあります。

「那須野が原」に農場を築いた主な貴族・元勲たち
●青木周蔵 ●乃木希典 ●大山巌 ●松方正義 ●毛利元敏 ●三島通庸 ●山縣有明 ●西郷従道 ●品川弥二郎 ●佐野常民 ●鍋島直大 ●戸田氏共 ●渡辺千秋 ●渡辺国武 ●山田顕義 ●佐々木高行 ●大久保利和

現在の「那須野が原」は、日本有数の牧場地として発展し、今や一大産業にまで成長しています。明治時代に貴族たちが描いた浪漫がここ「那須野が原」で見事に開花したと言えます。

“那須人”の私たちは、この明治時代の貴族による開拓事業が、那須地域の歴史を決定的に変え、現在の那須地域がつくられたことを、【日本遺産】のストーリーを通して認識する必要があるのではないでしょうか。 

四市町が文化庁に提出した【日本遺産】申請書
明治貴族が描いた未来 ~那須野が原開拓浪漫譚 ~ 申請書PDF
<Dai>


青木周蔵邸
〒325-0103
栃木県那須塩原市青木27
Tel:0287-37-5419


<青木周蔵邸の周辺地図>


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choko4※那須高原の那須町に移住してきた筆者が、那須にとけ込んだ人を“那須人(なすびと)”と称し、那須好きの人たちに那須の様々な観光情報を提供することで、“那須人”になってもらいたいと、このブログを開設しています。何か知りたいこと、聞きたいことがありましたら《Contact Us》までどうぞ。




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