那須町の重要な鉱業として「硫黄」の採掘が盛んに行われていたこと、知る人はほとんど少ないでしょうね。
下野の大名・那須氏を支える那須七党の一つであった大関氏。その大関氏がかかえる黒羽藩は、藩財政の経済資源確保のため、茶臼岳噴火口から硫黄を採掘していました。採掘された硫黄は、徳川幕府の 答え 火薬 製造原料として、江戸目黒砲薬製造所に売られていました。
※現在の那須町は芦野をのぞいてほとんどが当時は黒羽藩の領地でした
採掘されていた時代は黒羽藩15代藩主大関増裕(1837~1867)ですから、徳川家慶が十二代将軍になった年から、大政奉還が行われ王政復古の大号令が発せられた年までです。翌年には鳥羽伏見の戦いがあり、戊辰戦争で江戸幕府が消滅した年という激動の時代です。
<右端が大関増裕写真 写真:フリー百科事典Wikipedia>
江戸幕府の砲薬製造所で製造された火薬が、この戊辰戦争などで使われるとは、黒羽藩の大関氏は最初は考えもしなかったでしょうね。歴史とは不思議なものです。
江戸幕府は、日本全国の鉱山の情報は隠ぺいしていた関係で、那須町の硫黄鉱山の記録も、明治以前のものはほとんど残っていません。
<戊辰戦争の舞台となった白河市の小峰城>
那須町の硫黄の採掘場所は何カ所もあったみたいですが、一番大きい採掘場は茶臼岳の火口近くのもので、さらには観光名所となっている殺生石も実は硫黄の採掘場でした。
〈大正時代の茶臼岳硫黄採掘場 写真提供:花鳥風月blog〉
茶臼岳の採掘場から運搬用のロープウェイが戦前にはあった、という地図も残っており、鉱業としての取り組みは大規模なものと言えます。
しかしこれらの採掘場も、1881年(明治14年)の茶臼岳の大噴火で、火口の鉱区は火砕流に直撃されてきれいさっぱり失われてしまったと言われます。(花鳥風月ブログ参照)
※上記はブログ「花鳥風月」で、茶臼岳の硫黄採掘場に関して、独自に現地調査を行い解明した個人調査レポートとなっています。とても内容の濃いものですにのでおすすめです。
<今は採掘場の跡形もない茶臼岳の火口>
歴史とともに消え去った那須町の硫黄採掘の話は、調べれば調べるほど不思議なことがたくさん出てきます。
また那須町の町内には、戊辰戦争の歴史の跡があちらこちらに残っています。何気ない史跡看板に足を止めて、そんな那須町の歴史をぜひ感じてみてください。
<Dai>
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<茶臼岳火口近辺地図>
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