『奥の細道』で有名な松尾芭蕉と那須地域とのつながりは結構深いことをご存知ですか?
江戸後期1689年(元禄2年)3月27日に江戸を出発した松尾芭蕉と弟子の河合曾良は、日光東照宮を参詣のあと、那須町お隣の大田原市・黒羽に14日間逗留しました。(那須検定テキスト参照)
〈黒羽芭蕉の館前の像〉
1地区としては奥の細道で最も長い期間の逗留で、一説では奥の細道の紀行は「黒羽から始まった」と言われるほど。
黒羽にこれほど長い間逗留したのは、もともとは芭蕉の弟子の一人である那須郡黒羽の城代家老・浄法寺図書高勝(じょうほうじずしょたかかつ 俳号:桃節とうせつ)とその実弟・岡忠治豊明(俳号:桃翠とうすい)に招かれたものと言われます。連日地元の人たちと俳句の会を楽しんだとか。
松尾芭蕉と曾良はその後、那須町を訪れ名主・覚左衛門方に二泊し、那須温泉神社や殺生石を訪れています。
那須地域に松尾芭蕉は 答え 16日間逗留しました
殺生石で詠んだ句は 『石の香や 夏草赤く 露あつし』で
松尾芭蕉は殺生石のことを「石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬ程にかさなり死す」と、その状況のすごさを書いています。
田舎に移住すると、その土地の色々なことに興味が湧いてきます、歴史上の人物としてしかとらえていなかった松尾芭蕉も、地元とのつながりが浮き彫りで捉えられるようになり、まさに歴史の中で生活しているという実感が生まれます。
<Dai>

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