【那須学Q&A22】那須町で明治政府から拝領された土地を開拓した公爵は誰?

那須野が原の開拓の歴史が、2018年に「日本遺産」として文化庁から認定されたお話は以前した通りですが、「明治期の華族農場を中心とする那須野が原開拓の歴史」の日本遺産のストーリーに、唯一、那須町の開拓を行った公爵が存在します。そもそも明治貴族の開拓の中心は、箒川と那珂川にはさまれた扇状地が中心で、那須町の開拓はメジャーではなく目を向けませんでした。

那須町の開拓に着手した伯爵がいました
そんな中で、唯一那須町の開拓に着手した貴族は、答え 山田顕義あきよし伯爵 ただ一人でした。

山田顕義の肖像写真 wikipediaから
山田顕義伯爵の肖像写真【山田顕義伯爵】は、山口県萩市の長州藩士の家に生まれ、松下村塾に学んだ明治維新の志士でもありました。明治維新では、鳥羽伏見・函館戦争などで指揮官または参謀として参加し、西南の役でも活躍。35歳で陸軍中将に昇進し、岩倉具視米欧使節団に随行し、帰国後は軍事・法律・教育面に精通し、新政府では司法大臣を初代から4期務めるなど、要職にに就任。1889年(明治22)には日本法律学校(現日本大学)、翌年には現國學院大學を創立し、法律を学ぶ人たちの育成に努めました。

【山田顕義伯爵】は、1891年(明治24)には開墾の目的をもって明治天皇に、那須郡那須村大字寺子および芦野町富岡の地(両方の土地ともに現在の黒田原になります)を拝借願し、“山田農場”として開拓事業に乗り出しました。

私も日本遺産のストーリーを読むまでは、“山田農場”のことも、【山田顕義伯爵】という人物も、“山田農場の事務所跡”(山田資料館)が那須町に存在することも、まったく知りませんでした。
今も残るかつて山田家の人たちが使っていた家屋
山田農場の事務所跡

現存の事務所跡は、明治の開拓の事務所につながった客室として使われていた貴重なもので、伯爵らが実際に寝泊まりした宿舎でもありました。館内には、山田家関係者の写真、山田家使用の調度品、山田顕義関係の文敵、山田農場資料等、山田家ゆかりの資料など、歴史的にとても大切なものが数多く残されています。
当時のものもそのまま残されている資料館
那須町の山田資料館の展示品

日本遺産ストーリーについては下記の記事をご覧ください

那須野が原の扇状地は水資源に乏しく、農地には適さない原野でした。明治政府の殖産興業政策により、日本三大疏水の那須疏水が開削されると開拓が始まります。貴族階級は私財を投じ大規模農場の経営に、浪漫を抱いて荒野の開拓に挑みました。その一人、青木周蔵をご紹介。

《ご報告》
“山田資料館”は、町から有形文化財の指定を受け、日本遺産のストーリーに加えられているにもかかわらず、町としての整備保全が何らされておらず、資料館の管理保存は、山田家の子孫の方が細々と行っているだけの寂しい状態となっています。訪れた日2019年6月27日は、草木が生い茂り「これが町指定の文化財?」と驚くような光景が広がっていました。日本遺産のストーリー関係で、内外から訪れる人たちに、那須町の文化度の低さを露見しかねない状況だと大変悲しい思いにかられました。

<Dai>


山田資料館
栃木県那須郡那須町大字寺子丙4-2

連絡先:那須町文化協会 
Tel:0287-72-6565


<山田資料館の周辺地図>


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那須学物語【那須学Q&A】は、那須町・那須高原・那須エリアのことをQ&A方式で解説していくものです。参照元情報は、社団法人那須観光協会発行の「那須検定公式テキストブック」「那須学物語」などを参考にしております。これらの情報が那須に移住しようとお考えの皆様方の、那須の知識を増やし那須人になるきっかけになればと思います・・・。


choko4※那須高原の那須町に移住してきた筆者が、那須にとけ込んだ人を“那須人(なすびと)”と称し、那須好きの人たちに那須の様々な観光情報を提供することで、“那須人”になってもらいたいと、このブログを開設しています。何か知りたいこと、聞きたいことがありましたら《Contact Us》までどうぞ。




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