那須高原・那須エリアにはたんさんの陶芸家が住み、それぞれの作風で作品や生活陶器の製作を行っています。陶芸作家が那須に多く移り住んでいるのは、自然の中で陶芸に精を出せるという製作環境が理由の一つで、もうひとつは観光地という場所で観光客への陶芸指導ができるというのもその理由となっています。
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陶芸家が多く存在し、多くの作品が生まれているにも関わらず、那須エリアは陶芸に適した粘土層がある訳でもないため、陶芸の町『益子』のようなブランド名を那須としては持っていないのが現状です。
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しかし、かつて、明治維新の後、那須町にひとつのブランドの陶芸が存在しました。
明治維新で近代化の道を歩み始めた日本は、「富国強兵」「殖産興業」の国策を推し進めました。そんな動きに合わせて全国に起業家が生まれ、新たな産業が興りました。
那須町に生まれた 答え 薄室焼 もそうした事業の一つでした。
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那須町歴史探訪間に残る薄室焼 写真:那須町歴史探訪間
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【薄室焼】は、那須町大字高久甲の“薄室地区”で焼かれたので【薄室焼】と呼ばれました。記録によれば、明治の中期頃、同所に住む平山政蔵(1865~1938)が窯を開き、近郷に販売していたと言われています。
もともとは茨城県の笠間焼か栃木県の益子焼の流れを汲む窯のようで、窯跡は平山貞夫氏住宅付近や平山勝利氏所有地内に残っており、柿釉の大甕や徳利、壷などを焼いていた。現在は竹が混在する杉林となっています。
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現在の笠間焼の登り窯
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近くの不動尊堂には平山政蔵らによって奉納された絵馬(縦93㎝×横60㎝)があるそうです(私は不動尊堂の場所が判らず見たことがありません。場所を知っている方教えてください)。
不動尊像に酒を供えて祈る2人と焼成された焼き物、製造所の家屋などが描かれているとか。「奉納明治24年旧2
月28日 当所陶器製造舗平山政蔵 茨城県中野郡野口村 関根兵吉・平山仙蔵」と記されており、野口村は現在の茨城県常陸大宮市野口(旧御前山村)で、仙蔵は政蔵の義弟です。
【薄室焼】の窯の操業は政蔵一代限りで、現在では那須町の人々の記憶からも失われようとしていて“幻の焼き物”といえます。 <Dai>
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那須歴史探訪館
〒329-3443
栃木県那須郡那須町大字芦野2893
Tel:0287-74-7007
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那須歴史探訪館の周辺地図
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